澤川の生い立ちについて簡単に調べてみました。 [澤田 宏]
(これは平成十四年、愛宕神社宮司川人貞現氏より原稿を得た」ものである。)
昭和三十六年「谷出」の火災で越してきた「北野宗一郎」氏の屋敷造成の折り「ツボ」と「オノ」が出土し、鑑定の結果、縄文文化中期のものでないかと判定を受けた。
その頃の生活は集落では無く、狩をして生活していたものと思われる。
治承元年(1177)
平家打倒の計に敗れた俊寛僧都は鬼界が島に流刑が決まったが平教盛の仁情により教盛の所領、越中宮島郷に隠置された。
俊寛を慕い集まった七件百姓、「八エ門」「七蔵」「孫蔵」「勘五郎」「長次郎」「九蔵」「勘九郎」が宮島に近い「澤川」の地に住居を求めて澤川村の開拓の祖となった。
俊寛没後、その守護の神が自ら山道を越えて、この地に来たり夢に告げて曰く、 「吾、汝らと共に、此処に鎮座す」との神詑を受けて「愛宕社」を建て村が次第に発展したと言う。
天正十二年(1582)
宝達山金鉱の堀口十二箇所が開かれてから宝永年間まで、約五十年間余の採掘が続いた。
野田村と共に澤川村は鉱山開拓者の入植に支えられたとも考えられる。
加賀藩より草高六二十石と定められ、公米未納罰として二日間以上川漬けにされ村民は最も恐れていた。
この惨情を見るに忍びず十村役の杉野太左エ門が金澤へ命がけで嘆願し許されることになり、これより村人は大いに喜び、氏神なりと、敬い三月末日頃村民あげて霊を祀りこれを太左エ門祭りと言う。
田畑兵衛
天正十二年九月十日(1582)
越中木舟城から佐々成政が末森城を攻めようと澤川を通った折り道案内を申し付けられたので息子を末森に注進させ、自分は能々と道無き道を案内し末森城の危機を救った功績として利家より志雄
保南山の内蛇崩、十八尾、泉原の参個所を拝領した。
その頃は澤川村は独立した部落を形成していたと考えられる。
今のように暖房器具などない時代、寒い冬の夜をこんな風に過ごしたそうです。
居間の次が納戸で、仏間との間に寝室が位置している場合が多かったと思います。
吹雪の夜は軒から霰が顔や首筋に落ちたものです。
布団の下に『藁』や『すべ』(藁の葉の部分)を敷いたりして冷えを防ぎました。
耳の付いた『夜着』を掛け布団にしました。
「『ガサガサ』言うてやかま(耳障り)しいがいれど、『すべ布団』に寝てみるかいや」
「温(ぬく)いもんじゃそうな、ちょっ(少し)こり(位)くらい、やかましても、我慢(がまん)せんならん」
「布(きれ)ぁ弱かったかちゃ、藁(わら)の先で破れて『すべ』ぁ顔出すそうな」
「やっぱり、音ぁ、いじくらし(うるさい)いかのう、寝付(ねつ)くなり、『ガサガサ』やられたかちゃ、まんごね(絶対)も、ねぶれ(眠る)んがにならんかのう」
「耳のでかい『夜着』(耳の付いた布団)で押さえつけられてねぶりゃ(寝たら)、温(ぬく)かろう」
「湯たんぽの代わりに、えれ(囲炉裏)で、石んなむ(を)焙(あぶ)って布(きれ)で『マイタマイタ』して、おだい(抱いて)てもぬくい(温い)といし」
「湯たんぽのくっさし(栓)ゃ、脱(ぬ)げて、敷布団な『ベチョベチョ』になってしもうて、おぞい(酷い)目におうたぞいし(逢いましたよ)」
「そがん(そんな)ことより、首に霰(あられ)ぁ降(ふ)ってこん(こない)が(ように)にしてくさい(下さい)せ」
おしまい
終戦の翌年に、「母水開拓団」が入村されました。
夏の暑い日の、正午頃に、組合の前に到着されました。
台八車は、又六さんの、納屋に預けて、早速、「母水ハハミズ」に向われたのでした。
台八車は、組合の前からは、道巾が無かったのです。
開墾は、思うに任されず、大変な御苦労をされました。結果的には、失敗に終わりました。
「何人ぐざった(おいでたの)がいら(やら)、おぞげな(大変な)、がさやぶんなか(藪の中)じゃそうじゃが(そうですが)、おかみの(政府の)、いわっしゃるように、旨いこと、いくもんかどうか、人(他人)のこっちゃれど(ごとですが)、心配じゃのう」
「浅井さん、坂本さん、川畑さん、青島さん、西部さん、長谷川さん、上野さん、小竹さん、名前の解らん人も、ぐざるよう(おいでる)じゃれど(ようですが)、ほとんど、夫婦連れじゃといし」
「ごぼの(寺の)うしろから、「梨の木峠」んなむ通る、「野田」道へ、歩いていかした(行かれた)といし(そうです)」「こないだ(この間)、学校の遠足に、母水の開拓団んなむ、見に、行って来たがいれど、せばい(狭い)、暗らい、おとろしい道んなむ、だやかった(だるくなった)じゃ、一時間から、うえ(以上)、かかった、よう
来てくれた言うて、泣いて喜んでぐざった、どべぁ(土が)悪て、なん植えても、蒔いた種程、
採れん言うてぐざった、炭も焼いて見たり、澤川迄の新して広い「林道」んなむ、こしらえさっしゃるがでないか言う話ぁ出とるそうな」 おしまい
大きな地滑り発生で「沼の平」(ぬまのひら)から現在地に集落が移り住んだのは
寛文8年(1668年)ですが
明治21年6月の在所記録として「新設墓地見取絵図」が存在します。
整然と1番から92番まで名が記されております。
平成に入り、集落の家の位置と墓地の位置が似かよっている感が有ったので
現住職さんにお聞きしたところ「見取り図」が大火の消失を免れて存在している
とのことで「コピー」させて頂いたのです。
凹凸の激しい、しかも、川有り、谷有りの地形とやや平坦な墓地の地形では
満足に合致は無理ですが「谷出」「向出」「北出」「中村」に纏まっております。
当然、権利の売買、新宅、転出等の関係もあり、100%の合致は無理です。
澤田 記
澤川の墓地は、概ね、一か所に集中している。
一昔前は、「能登澤川のイシキリ」地区から「青石」を切り出して、建てたものが多かったが、近年 は、「ミカゲ石」の物が多い。
在所の家の配置と墓の配置が同じであることに注目したい。
中山間地改良事業により、駐車場も完備されお盆以外に訪れる人も多い。お墓ごと、離村された人もあったが、こんなに便利な世になるとは考えられなかったと思う。
「昔しゃひどかった、暮になると、「こも」やら「むしろ」やらで、墓んなむ、つつんで しみらんがに大層したもんじゃ」
「つつまっしゃる日ぁ、大体重なって、げみあいして、ぬくいがに、したのう」
「来年は、なおさんならん言うて、ぐざったれど、「石切り」ねも、硬い、良い石ぁ 少なくなったといし」
「ごぼに「南無阿弥陀佛」書いてもろて、「キスケアライ」に彫 つてもろわんならん」
「よう見ると、在所の家の並びと、ここの墓のならびぁ、いっしょにみえんかいや」
「ほんとじゃのう、「北出」「中村」「谷出」「向出」、かたまっとるのう」
「北海道らちに、いかした人の、墓守もせんならんし、どこの墓か、わからんがに、 なったときぁ、「キスケアライ」にコピーしたがあるとう」
おしまい
里では「盤持」と言います。
お宮さんの境内に形、重さ、の違った、数個の石が置いて有りました。(現存します)
その石を、膝の高さまで、上げる事ができるか、腰の高さまで上げられるか、肩に担ぐ事が出来るかを競い、力自慢。をしたのでした。
石、そのものは、「力石」で全国に通用します。
「宮のかいどえ行って、「ばんぶち」んなむ、してこまいかい」
「雨ァ、降った、後じゃさかいに、石んなむ、「すんばの葉」でうくしいがに、拭いてかからんならん」
「ボロ」で拭いたかちゃ、罰ぁあたるぞ」
「二斗石から、始めるぞ、ここにおる、弱いもんのじんばんに、やってみさっされ」
「もうちょっこりで、娑婆の風、切れるがいれどあかん」
「きついもんに、してくさいせ」
言うて、かん様にたのまんさかいに、だちかんがじゃがいや」
「さんたぁ下のもんに負けて、はがやしないかいや、ちょっこり、みとらっされ、こつんなむ、教えてやるさかいに、石、抱えた時に、うしろへ、かやるようながに、やってみさっされ、石んなむ、足のへらに、おとされんぞ、罰ぁ当たったいわれるぞ」
「石も神様じゃ言われとるがいぞ」
「ようさり、獅子舞の稽古ぁ、あるさかいに、石んなむ、またいしとかんならんじゃ」
おしまい